東海教育研究所というところより、発行されている「望星」という月刊誌に大島の記事が載っていました。とても興味深い記事だったので、HPへの転載をお願いしたところ、快く許可していただきました。以下できるだけ原文に忠実に転記してみました。尚、これに関する文献として、朝日新聞、1997.1.7などもあります。
「望星」2000.10月号
幻の平和憲法『大島大誓言』の背景を探る
五十三日間の「大島共和国」独立構想
フリーライター岡村青
今年一月、国会内に憲法調査会(中山太郎会長)が設置された。現憲法が施行されて五十三年。以来〃聖域"視されてきた憲法をさまざまな角度から論議しようというのが、設置の趣旨らしい。そのため論憲あリ、改憲あリ、創憲あり……と論議はじつに賑々しい。どのように論議されようと、しかし戦争放棄・基本的人権、この二大精神は堅持されるべきと私は考えるが、この現憲法の成立に先駆けて、それに匹敵する平和憲法を制定する動きが伊豆大島の元村(現東京都大島町)においてすでにあったという事実をご存じだろうか。敗戦直後の一九四六年一月のことであった。正確には「大島大誓言」という。通称で〃大島憲章"ないし〃大島暫定憲法"などといわれるが、その事実を知りたくて、私は大島町に飛んだ(文中敬称略)。
日本からの分離を求められる
東京から大島までは直線距離でほぼ一〇九キロ。一方、伊豆半島の伊東市まで三六キロ。まさに指呼のうちにある。この距離の近さから生活物資のほとんどは伊豆半島方面から運ばれている。「政治は東京、経済は静岡」と島民が称するゆえんである。それほどに本土との結び付きは強く、むしろそれなくして大島の存続は考えられないといってよい。ところがこの大島(のみならず伊豆諸島全体)が、東京はおろか日本国からも切り離され、日本政府の行政権が及ばない、いわば分離独立を余儀なくされるという事態に一万一千大島島民は直面するのであった。一朝にして大島は日本国でなくなる。この事態をどう理解すればいいのか。ある者は動転し、ある者は困惑したに違いない。だから、当時大島青年会会長で大島暫定憲法の草案作成のために設立された準備委員会のメンバーの一人に名を連ねる藤井善弥(七七歳)は、「大島が大変なことになった……エライことになった」とため息をつく柳瀬善之助村長(当時)の困惑ぶりを目の当たりにし、大西正二(八八歳)は逆に、大島独立をむしろ歓迎するかのようなムードを、当時共産党員であり憲法制定のメンバーでもあった雨宮政二郎の言動から感じ取るのであ
った。「大島独立」「大島共和国」−。かつてこのようなことを想像した者がいただろうか。事態は大島島民の想像をはるかに、超えるという点で、まさに青天の霹靂であった。
大島島民を不安と混乱の淵に追いやる行政分離。それはいかなる経緯から生じたのか。これに触れるにはポツダム宣言、あるいはGHQ(連合国総司令部)の日本占領政策を見ておく必要がある。大島の日本国からの分離は、ポツダム宣言第八条の「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに、われらの決定する諸小島に局限せらるべし」との措置によった。ポツダム宣言は米英ソ中の四ヵ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、日本に対する大戦終結後の基本方針を示したものだ。したがって同八条によって早くも一九四五年十一月、奄美大島はGHQの信託統治が開始し、軍政が敷かれた。日本国の主権から離れた伊豆大島も、GHQの監督下に置かれた。ただし、それは奄美大島の例とは違って、GHQの統治下に入るというものではない。つまり監督はするが、統治するのは島民自身という姿勢で臨むというものだ。このことは、GHQ大島駐屯部隊長ライト大尉から大島の日本国分離の通達を受けた際に書き留めた柳瀬村長の、「島興行政二関スル件」(一九四六年一月二十一日)の記録で明らかだ。本日(二一日)ライト大尉(大島駐屯隊長)の談に拠れば
一、島嶼は今後本国政府の指揮監督を受くることなく支庁長警察署長独自の行政を執行す。
二、内務省より返還を受けたる物資は全部島内の民生に充つるものとす。
三、既存法令は現存せしめ、逐次細目を決定す。
四、当分の間米側の行政機関は特別に設置せず、駐屯隊長は日本政府機関に対し命令することなく、単に監督す。
五、警察官の日本刀は其のまま警察署保管のこと。
六、発電用重油不足の場合ビーコン用のものを融通す。
困窮のなかで、"独立国づくり"
かくして大島は日本国から事実上分離され、島民自身による自治体制の確立が急がれることを村長は痛感する。とはいえ、「自分たちの国家を作れ」といわれても、おそらく実感はなく、まるで雲をつかむような話であったに違いない。まして敗戦からまだ五カ月たらず。物資不足は衣食住すべてにおよんでいる。農作物に肥料はない。出漁したくても漁船に燃料はない。家畜にも飼料がない。島民はほとんど疲弊のきわみであった。島民にとって目下の関心事は、だから今日の食料をいかに確保するかであり、「大島共和国しの独立問題などではない。当時の大島島民の困窮ぶりはいかばかりであったか。そのころ十七歳だった藤井伸(七一歳)の証言でその一端が知れよう。「汲み上げた海水を煮立てて塩を採り、それを内地に持って行く。塩一升と米一升が交換できたんですよ」大島は米が取れない。水田がないからだ。ところで、『大島大誓言』の資料を発見し、大島暫定憲法に光を与えたのは、じつはこの藤井伸であった。「大島憲法のことは聞いていたが、それがどのようなものかを証明する資料はというと、どこかに放置されて眠ったままになってる。いつしかそんなことがあったことすら人々は忘れてま
した。それを発見したのは、ですからまったくの偶然だったんです」藤井は大島高校の教師を務める一方、文化財保護委員も兼ねていた。そのため町役場の一室にこもってはひとりで黙々と行政文書の目録作成などをやっていた。そのようななかで彼は大島暫定憲法に関する一連の文書類を発見する。そのときの発見の様子を、いくぶん上気した面持ちでこう語るのだった。「町の庁舎が新築される前の、古い木造庁舎の地下倉庫にもぐり、例によって古文書類を整理してたんですが、大島憲法に関する資料はその文書類の一番下にあったんです。ヨコ約三五センチ、タテ約七〇センチほどの石油缶が二個分入る木製の箱が七、八個、それに厚みが二〇センチほどの茶箱に入ってたんです。それを引っ繰り返して中身をひとつひとつ丹念に調べてみると、なんと、それは大島憲法に関する書類だったんですね。食い入るように読んでしまい、全身が金縛りにあったような、言い知れぬ興奮におそわれたのをいまも忘れません」藤井のこのような地道な作業がなかったなら、おそらく大島暫定憲法はいまもって日の目を見ず、単なる歴史物語にすぎないままで終わっていたかもしれない。ともあれ、ただでさえ敗戦のシ
ョックと食料不足であえぐ大島島民にとって、この"大島分離"は窮乏にさらに追い打ちを加えるものであった。不安や混迷から島民を救済するには、まず島の経済復興が必要であり、次いで政情安定、治安回復、さらには自治運営に重要な諸政策を急がなければならない。一九四六年一月に就任したばかりの柳瀬村長は奔走する。柳瀬村長はもともとジャーナリストだった。『島の新聞』を発行し、記者と同時に編集主幹であったのだ。同紙は一九二四(大正十三)年二月の創刊で、毎月五の日発行のタブロイド版。敗戦の一九四五年二月、五九号をもって休刊となるまで続いた。じつはこの間、同紙は一ヵ月間の休刊処分を当局から受けていた。天皇「陛下」を「陸下」と誤って印刷したのが処分理由だった。柳瀬村長が見せたこのころの動向はそのまま大島暫定憲法制定に向けた助走であることがわかる。ライト大尉から行政分離に関する通告を受けた村長は、ただちに「大島元村有志人名簿」を作り、大島の自治権確立について討議するための人選に着手するからだ。この名簿の中に藤井善弥、大西正二の名が連なる。「けど、会議の場に出たこともなければ声がかかったこともありませんでしたよ。第一
、なんで私の名前がここに挙がったのか、それさえわからんぐらいです」私が入手した人名簿を感慨深く見つめながら、しかし大西はこう述懐する。大西は当時波浮地区の小学校教師をしていた。けれど戦争に加担したこと、教え子を戦場に送ったことへの自責の念から、敗戦を契機に教師を辞職し、帰農していた。名を連ねていたが、公式な場に呼ばれることはなかったという点で、藤井善弥も大西と同様だった。当時藤井は元村青年会の会長であった。「青年団という名称は軍国主義を想起させるっていうんで、よりソフトな青年会にしたんです」たかが名称にさえ、これほど神経質にならなければならないのだから、敗戦国日本が置かれていた立場の想像がつくというものだ。ともあれ、有志人名簿には元・前村長、農・漁業会、商・工・消費組合、宗教関係など各界各層から約七十五名が選抜された。この名簿でわかるのは、メンバーはもっぱら元村の住民に限定されているという点だ。当時の大島は元村、岡田、野増、波浮、差木地の六ヵ村があった。にもかかわらず他村からの選抜はない。それは他村にはまだ大島の行政分離問題が伝達されていなかったことによろう。しかしこの人名簿作成から十日ほ
ど後に成立する準備委員会には五ヵ村からもメンバーが加わっている。そしてこれらのメンバーによって「大島六ヵ村連合村長会」が設立する。さらに一九四六年二月七日には、準備委員選出会議が開催される。会場は元村役場庁舎二階の会議室であった。むろんその庁舎など現存してない。したがって往時をしのぶ手がかりといえば写真(六十五ぺージ)しかない。庁舎は瓦葺きの木造二階建て。外壁はしぶき板。白いペンキが塗られている。この会議の席上、柳瀬村長は大島が置かれている現状を説明し、大島はいかにあるべきかを指し示そうとするのだった。その説明でとくに目を引くのは「自主独立への決意」であったろう。その文意を記すとおおむねこのようになろうか。大島はまさしく過度期に達している。現下、ただちに更生の道を整えなければ「亡国の民になるよりほかない」。ゆえに行政分離による苦難は甘受しつつも民意を結集し、「米軍の意図に積極的に協力し、民意を主張し、理想郷新大島の建設に奮闘し、楽しい私共の生活を獲得しなければならない」と訴えている。
柳瀬村長が読み上げた原稿は「陸軍」と印刷された用箋を用いている。そこがまたいかにも当時の行政のありようを感じさせておもしろい。かくして大島は日本国からの分離独立のための第一歩を踏み出すわけだが、この会議に漕ぎ着けるまでには相当の議論が委員間で交わされたことは想像に難くない。大島が日本でなくなる。となれば日本円は使えなくなるのか、いままで通り本土とは自由に往来できるのかできないのか、物資の流通は、郵便物の取り扱いは、島民の不安や懸念は増幅するばかりであった。だから柳瀬村長自らも「大島がたいへんなことになった。エライことになった」と、藤井善弥にボヤくのだ。「柳瀬村長と私の父はいとこ。しかも青年会の会長だったから役場に出かける機会は多かった。そんなときでしたよ、私が村長から大島の分離独立問題を聞かされたのは」ところが大島のこの分離独立をむしろ歓迎しようとする者も少なからずいた。大西正二は現にそうした人物に出会っている。「雨宮政二郎という人でした。職業は大工さんでしたがバリバリの共産党員でした。でも党員にありがちな尊大さや傲慢さはまったくない、かえって謙虚な人でしたね。その彼が『大島がたいへんなこと
になりそうだぞ……面白くなりそうだから見てろよ』って、しきりに言ってたのを今でも覚えてますよ」大西はさらにこうも付け加えるのだ。「大島憲法は雨宮さんに負うところが大きかったと思います。憲法を作ろうってのには生半可な知識じゃできない。組織力、政治的経験も必要。雨宮さんにはそういうものがあった」藤井伸もそれを否定しない。つまり大島暫定憲法制定の背後には雨宮ないし共産党の意志が影響していたということだ。「ロシア型憲法に近いものがあった。たとえば主権在民などはそうです」
できつつあった"国の骨格"
現在の日本国憲法が成立するにあたって二つの公式な憲法改正調査委員会が編成された。つまり天皇の命令を受けた近衛文麿らのグループと幣原内閣の、松本国務大臣を委員長とするグループだ。このほか当時の各政党も独自の憲法草案作成に着手していた。自由党や進歩党などは明治憲法の残滓をいまだとどめるかのように天皇をして「統治権の総攬者」あるいは「臣民の輔翼に依る」として天皇および国体の護持を認めている。これに対して共産党だけは天皇制廃止および主権在民を求め、他党とは際立っていた。大島町史編纂委員の角田実の見解は、藤井伸や大西正二らとは異なる。すなわち雨宮や共産党の影響はなかったというのだ。角田は一九六六年五月、社会科教師として大島高校に赴任した。当初は三年程度で都内に復帰するはずだったが、結局戻らずに現在に至っている。角田は町史編纂委員の関係から大島暫定憲法に関する調査研究に携わっていた。「主権在民、議会制民主主義、三権分立など、現憲法に匹敵する制度が大島暫定憲法には盛り込まれてますが、何か、モデルになるようなひな型でもあったのでしようか」私のこの問いに対して、角田はこう答えた。「いや、なかったと思います。
というのは当時大島と本土とを結ぶ連絡網は絶たれてましたし、本土は本土で自前の憲法革案を急いでましたから。したがって大鳥憲法は独自に考えられたといっていいでしよう」独自のものであったかモデルがあったか。大島暫定憲法の顛末からすでに五十数年が過ぎ、この問題に直接関与した当時者の多くは鬼籍に入り、当時を知る〃生き証人〃といえばわずかに前出の大西正二や藤井善弥ぐらいのもの。したがっていまとなってはそれを確かめるのは至難の業だ。ただし、この大島暫定憲法の制定にGHQの意向が反映していたことは疑いないところだろう。そしてその意向とはすなわちポツダム宣言第一○条の精神に則ったものであることもまた疑いない。同一〇条にはこうある。「われらは日本人を民族として奴隷化せんとし、また国民として滅亡せしめんとする意図を有するものにあらざるも、われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えるべし。日本国政府は、日本国民の間における民主主義傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教および思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」大島暫定憲法の成立に向けて準備委員会を立
ち上げ、立法・行政に相当する「最高政治会議」、司法に相当する「自治運営協議会などの原案作りに着手した柳瀬村長が打った次の手は、日本国との行政分離によって生じた難局に対し、大島六ヵ村島民が結束融和し、民主主義に裏付けられた新大島の建設を目指す、その事業であった。一九四六年二月二五日、柳瀬村長が読み上げる『大島島民会(仮称)設立趣意書』は、今後取るべき大島島民の行動と精神を、悲愴な決意のなかにも楽観と希望をもって高らかに謳い上げようとするものであった。設立趣意書とともに『大島島民会規約(案)』が示されたが、二三条からなるその規約は住民自治を目的とする、事実上の『大島共和国政府』樹立の素案といってよい。この素案をもとに国会議員に相当する運営委員の性格やその選出方法が討議される。有権者は島内に在住する二十歳以上の男女とし、被選挙者は二十五歳以上の者にすると規定している。GHQ大島駐屯隊長のライト大尉から大島の日本分離が通達されたのは一月二十九日。突如として起こったこの事態に、以来大島島民は騒然とし、不安と混乱のなかで疑心暗鬼にかられる。そのため、ある者は日本から孤立した大島の将来に憂慮し、またある者は逆に
、大島の独立と共和国樹立の期待感に胸を躍らせるのだった。そのようななか、柳瀬村長は事態打開に奔走した。そしてライト大尉の通告からほぼ一ヵ月後には、徐々にではあれ、はっきりと「大島共和国」の骨格が整えられつつあった。『大島島民会規約』、さらには『大島大誓言』の作成がすなわちそれだ。『大島大誓言』。名称にしてからが気負いを感じさせるが、しかしその全容を知るのは運営委員など一部の者にすぎない。だからメンバーでありながら大西正二や藤井善弥らは「知らない」「見たこともない」ということもあり得るのだ。したがって一般の島民が大島暫定憲法の全容を実際に知るのは、藤井伸が庁舎の地下倉庫に眠る資料を発見する一九九七年まで待たなければならなかった。ともあれ、『大島大誓言』に行き着くには委員の間に喧々囂々、白熱の議論が交された。立木猛治著『伊豆大島志考』はその様子をこう伝えている。「元村では各層各階の代表者を招集して役場楼上に一世の大会議を開いた。不肖もその末席にあったのでその記憶によれば、参会者はいずれも沈痛の想を心中に秘め、拳で涙を押し拭い乍ら数時間にわたり、真剣に熟議を遂げた。(以下略)」
幻に終わった〃大島共和国〃
大島の将来はいったいどうなるのか。漠然とした不安はあるものの、じっさいここに参加したメンバーですらおそらく正確に説明できる者はいなかったに違いない。それほどに事態は複雑かつ深刻だったのだ。ところが事態はまたまた急展開する。大島の行政分離は急速撤回されるからだ。東京都側はGHQに対して、大島は東京都の一部であること、軍事施設がないことなどを力説し、本土復帰を強く求めていた。それが功を奏したのか、GHQは三月二十二日、伊豆諸島を再び日本本土に復帰させる行政分離解除の指令を発する。かくして『大島共和国』独立の夢は、行政分離の通告を受けた一月二十九日からかぞえて五十三日目の三月二二日、あえなく消滅し、幻と終わった。行政分離が解除されたことで不安は解消され、島民の表情にも明るさが戻った。けれど解除を機に『大島大誓言』はたちまち雲散霧消し、あの騒ぎはいったい何であったのかと思うほど、見事なまでに忘れ去られていったという。結末はどうあれ、しかし『大島大誓言』に盛り込まれた主権在民、基本的人権、平和主義の精神は、現憲法に通底するものがあり、それを一部の学者や知識人たちによらない、大島島民自身の知恵と創意によ
って創り得たところに大いなる意義と示唆があろう。最後に、当の『大島大誓言』(大島暫定憲法)を掲載してこのリポートを締めくくりたい。
「大島暫定憲法」
一九四六(昭和二一)年三月前半ころ
本島曠古ノ激変ニ会シ其ノ秩序ヲ維持シ進ンデ島勢ノ振起ヲ図ルニハ基本法則タル大島憲章ヲ制定スルヲ以テ第一義ト思料スルモ此ノ事タル多分ニ慎重ナル態度ト高邁練達ナル思考ヲ要シ焦慮軽挙ハ厳ニ戒メザル可カラズ然モ一方状勢ハ一刻ノ逡巡ヲ許サズ仍テ不敢取島民総意ノ一大誓言ヲ提ゲテ事態匡救ノ一端ヲ把握シ之ニ依テ制立セル議会二依ツテ憲章制定事業ノ完遂ヲ期スルヲ以テ時宜ヲ得タル処置ト信ズ仍テ左記提案ス
大島大誓言
吾等島民ハ現下ノ状勢ニ深ク省察シ島ノ更生島民ノ安寧幸福ノ確保増進ニ向ッテ一糸乱レザル巨歩ヲ踏ミ出サムトス吾等ハ敢テ正視ス、吾等ハ敢テ廿受ス、吾等ハ敢テ断行ス仍テ旺盛ナル同義ノ心ニ徹シ万邦和平ノ一端ヲ負荷シ茲ニ島民相互厳ニ誓フ
一、近ク大島憲章ヲ制定スベシ
一、暫定措置トシテ左記ノ政治形態ヲ採用シ即時議員ノ選挙ヲ行フベシ
一、当分ノ間現在ノ諸機関ハ之ヲ認ム
記 「採案左記」
大島政治形態
第一章統治権
一、大島ノ統治権ハ島民二在リ
ニ、議員選挙有資格ノ二割以上ノ要求ニヨリ議会ノ解散及執政府ノ不信任ヲ議員選挙有資格者□投票ニ付スル事ヲ得
此ノ場合及議会若ハ執政ヨリ発セラレタル賛否投票ハ総テ多数決制ヲ採用ス
第二章 議会
三、島民ノ総意ヲ凝集表示スル為メ大島議会ヲ設置ス
四、議会ハ一切ノ立法権ヲ掌握シ行政ヲ監督ス
五、議員ノ任期、三ヶ年
六、議員ノ選挙方法ハ衆議院議員選挙法ノ主意ヲ採用ス
七、選挙ノ区域ハ各村別トシ人口五百名ニ対シ一名ノ割合ヲ以テ「議員ヲ」選出ス
人口五百名未満ノ場合ハニ百五十名以下ハ切下ゲム仝上以上ハ切上ゲ計算トス
八、議会ハ議長之ヲ招集ス
九、議長副議長ハ議員ノ互選ニヨル
一〇、議会ニ於ケル議員ノ言論ハ議会外ニ於テ責ヲ負ハズ
一一、議会ハ随時執政員ノ出席ヲ求メ質問シ得ル事
一二、各村長ハ議員ノ資格ヲ有シ議会ノ解散ニ依リ喪失セズ
一三、議会ハ必要ト認ムルトキハ島民ヲ招致シ其ノ意見ヲ聴取シ得ル事
一四、議会ハ執政府ノ不信任二関シ有権者ノ投票ヲ要請スルコトヲ得
第三章執政
一五、島民ノ総意ヲ施行シ島務一切ヲ処理スル為メ四名ヨリ成ル執政ヲ設置ス
一六、執政ハ連帯責任トシ島務一切ニ付其ノ責ニ任ズ 「任期ハ三ヶ年」
一七、任期ハ三ケ年
一八、執政長ハ執政ノ互選ニヨリ定ム
一九、執政長ハ島ノ首長トシテ内外ニ対シ島ヲ代表ス
ニ○、執政ハ議会之ヲ推薦シ議員選挙有資格者ノ賛否投票ニ依リ選任ス
ニ一、執政ハ議会ニ対シ予算決算案及其ノ他ノ議案ヲ提出シ其ノ審議ヲ求ムベシ
ニニ、執政ハ議長ノ許可ヲ得タル上意見書ヲ議会ニ提出シ其ノ説明ヲ為シ同意ヲ求メル事ヲ得
二十三、執政ハ議会ノ解散ニ関シ有権者ノ投票ヲ要請スル事ヲ得
「欠ケテル点ハ司法権」(「」内は後の書き込み)