大島町元町、吉谷神社の祭礼は古来から「神子で開いて鹿島で納める」といわれ、正月十五日の検分、十六日の本祭で年番若衆の手踊りのはじめに奉納されてきた。「伊豆大島志考」によれば、文政10年(一八二七年)七月、吉谷神社の祭礼につき次のような記録がある。
お尋に付書上(抄)
一、正月十六日、鎮守祭礼二而新嶋村(現在の元町)吉谷大明神於社地ニ、手踊の祭事御座候 但シ新嶋田町に分レ 下町 鹿島踊 上町 神子 仲町 鎗踊 新町 小早船 岡田村 廻船上下シテきやり之真似方仕方候
【註1】小早船が大島に初めてできたのは文化十三年(一八一六年)江戸の魚問屋佃吉左衛門によってであるから、この歌舞も、四町祭礼の組織も当代以後の所産であろう。
【註2】きやりの真似方は岡田で現今も踊っている「てこ舞」の謡いであろう。この記録によれば、両村の間に廻船を往復させ、船中で語ったもののようでもあるが、あるいは出演者を廻船で往復させたとの意か。
後年に至り、同村もまた余興の踊を交えて参加していたのであったが、明治四年、同村の名主川島豊一郎氏の時、祭礼座順の紛争から分裂し、爾来各別に踊ることになり今日に至っている。かく新嶋村が四町、それに岡田村を交えて五組が参列し、下段に記した手踊を演じた。現今は仲町鎗踊と新町小早船とは絶えてしまったが、上町神子と下町鹿島踊り、および岡田のテコ舞は残っている。前述のように初めは岡田を交えて五組であったが、明治初年分裂してから祭礼は元町の四町だけで行うようになった。ところが明治二十二年の大火の翌年、初めて非常組(消防組)が設置され、人口と地域の関係から村内を南北二組に分けて編成し、ついで同じ事情から祭礼も南北両組に分けて挙行するようになった。両組を年番と非年番とに分かち、隔年に先順位をとる。式典ののち年番は先順位となって初めに神子を舞い、ついで自組の踊を続けて全部踊る。次に非年番の若衆が後を受けて踊り、最後に鹿島踊りをやって目出度く祭りは終わりとなる、とある。「神子舞」は年番の組によって、かつては七歳から十歳、現在は小学校高学年から中学校低学年の男子一名が選ばれる。(昨年は元町小5年、立木直君が選ばれ
た)。服装は、正月十五日の赤門(旧神主藤井家)での検分の時は紫ちりめん、十六日の本祭りの時は浅黄色のちりめんに金銀糸の刺繍を施した裾模様の長袖に着替え、頭上には内裏雛のような冠をつけ、厚化粧したきらびやかな装束で舞う。「千早ふる天の岩戸を押し開き、神楽をそえて舞いたまう」歌頭(じがしら)が一人で長くひいて歌う厳かな調子の神楽謡が終わると、「タローソツコデショ」と声がかかり、畳一枚の真ん中に正座していた「神子」が立ち上がり、笛と太鼓のリズムに合わせ、石手に鈴、左手に白扇を持ち、しずしずと舞う。笛と太鼓の合間合間に年番の若衆から「アーリャイアーリャイ」「ノッタァノッタァ」と囃立て、「神子舞」は最高潮に達する。一回舞い終わるのに約五分、普通二回繰り返される。「神子舞」は「記紀」の天の岩戸で天知命(あめのうずめのみこと)がウケの上で踊り天照大神を蘇生させた神事を擬し、氏神に村民の安寧と繁栄を祈願してきた(大島町史民俗編)
東京七島新聞2000.4.18より