広報おおしま平成12年8月号
大島火山と古代人
大島には、およそ50カ所あまりの遺跡が確認されていますが、その内訳は縄文時代が11カ所、弥生時代が11カ所、それ以外は古墳時代から平安時代となっていますが、それらの多くは縄文時代や弥生時代の遺跡と重複していることが分かっています。すなわち10カ所あまりの遺跡は縄文時代や弥生時代でもあり古墳時代や奈良時代の遺跡でもあるということです。
たとえば下高洞遺跡、龍の口遺跡や鉄砲場遺跡などは縄文時代の遺跡として有名ですが、意外と古墳時代や奈良時代'平安時代の人々も同じ場所を選んで生活していたことが知られていません。したがってそれらと同様な遺跡を加えると何と45カ所にもなります。逆に考えると、島内の古墳時代や奈良時代の遺跡の中には縄文時代や弥生時代の出土する層が下に残されている可能性が高いといえますが、島独特の火山灰が厚く堆積しているので発見するのが容易ではありません。
ここでは古墳時代・奈良時代及び平安時代における人々と大島火山の噴火との関連性を述べてみます。
今から8000年前に勇気ある縄文人が渡ってきてから弥生時代にかけてほぼ万遍なく繰り返してきた渡島活動は、その後の古墳時代、奈良時代さらに平安時代まで受け継がれるが、厳密に考えると、その密度には高い時代、薄い時代がはっきりしています。
古墳時代の4世紀後半から5世紀代の前期は大久保遺跡、ケイカイ遺跡、水汲沢遺跡、七つ池遺跡、野増遺跡等12カ所に上がりますが、中期の6世紀代になると、ケイカイ遺跡、舟揚遺跡、野増遺跡、シンムラ遺跡の4カ所に限られます。そして7世紀代の後期にな
ると、秋の原遺跡、ケイカイ遺跡、和泉浜C遺跡、下高洞遺跡、野増遺跡をはじめ24遺跡と極端に増大し、島内がもっとも活況を呈していた時です。さらに8世紀代の奈良時代には再び大久保遺跡、オンダシ遺跡等遺跡数は6カ所に激減しますが、特にオンダシ遺跡では20数軒あまりの竪穴住居が造られ島内で集約された憾
拠点的「むら」が造られていたことが想定されます。
これらの遺跡のありがたから6世紀代の激減化の傾向から何らかの営力が働いたものと考えられます。自然的であったか人為的であったかを考える必要があります。また同様に8世紀代についてもいえます。
まず前述したように、6世紀時代代を挟んで5世紀後半期より7世紀半ばまで遺跡数が少ないことと、しかも小規模なことが分かります。一方火山活動からは、5世紀代に相当する噴火と684年の噴火が挙げられます。いずれも規模の大きい噴火と考えられ、遺跡との対比から前者は6世紀に近い5世紀代後半と考えられ、現在の大島の原形を造り上げた時期と符号するものと考えられます。この時期が終わって、やがて噴火活動の平穏な期間がつづき、再び人々が集まりだしました。
つづいて古墳時代後期後半から奈良時代前半期を迎え、人々の渡来のため航行する舟の安全祈願、山への安寧祈願を行ったことを裏付けるように和泉浜C遺跡が出現し、また大形集落が造られます。この頃は律令体制下にあって、中央(平城宮)の強大な権力のもと丁むら」造りが行われ、中央の支配下に組み込まれました。
そんな時にオンダシ遺跡が形成されたのです。
(川崎義雄)