八幡神社の手古舞
大島町岡田
起源は為朝の配流

岡田・八幡神社(祭神は応神天皇、源為朝)の祭礼は毎年一月十五、十六日に行われる。祭礼はヤナギの儀式(奉納踊りの前に竹竿につけた約50竹センチ幅の菱形板=金・銀紙を張り、表に祭典、裏に家内安全と書かれた7本の紙花=ヤナギ=を差した全長5メートル余の看板を振る)に始まり、若衆の手踊り、手古舞が奉納されて終わる。その年、若衆による手踊りが行われなくても手古舞だけは毎年必ず奉納される。手古舞奉納が行われなかったのは、これまで大正天皇、近年では昭和天皇が崩御された年だけという。手古舞は若衆の手踊りをおえた人や三十〜四十歳ぐらいまでの氏子によって、人数は最低でも五組(2人1組)とかじ取り一人の十一人で舞われる。それに警護二人(7人の崇敬会世話人の中から選ばれる)が付く。「大島町史民俗編」によると、起源は保元の乱で破れた為朝が大島に配流され岡田の勝崎(かつさき)に漂着。この地に神社がないので村民と協力して岩山を手古で切り開き、八幡神社を建立した古事に始まる。岡田村は為朝の家臣の末薔(まつえい)により江戸初期、大島海方村の親村元町の避難港として創村開港している。
手古舞「げば手古・住吉しの木やり歌もその作業のときに用いられたものであるところから、故事を踏まえ、江戸初期に今日見る「手古舞」は完成されたといえよう。手古舞は江戸初期の隆達節が取り入れられた荘厳な木やり歌「げば天台・住吉」と同前期に流行した兵庫口説木やり歌「おい手古・那須の与一」からなる。内容は、為朝の霊が現れ、住吉の森にスズメが巣をかけたように住みよい村造りをし、また、与一にかけて為朝の強弓の霊力で村民に至福ど安穏を与えるというもので、古くは為朝の家臣の末薔のみがこの祭祀に参加できたという。
衣装と手古棒
振り手は印はんてん(定紋付)、角帯、股引き、自足袋、白麻裏草履。手方棒は杉(長さ五尺、幅三寸、厚さ七分)。
並び方
神殿(上手・かみて)側に天子頭(音頭)、鳥居(下手・しもて)側にかじ取り、左右(外側)警護各一人が付く。振り手衆が下手より入場。二列縦隊で五組か七組で並ぶ。所作「げば天台・住吉」@神前に手方棒を両手で捧げ一礼A手方棒を右肩に担ぎ外側を向くB拳延ばし荒事風丹前で片足回り下手向き。振り手「イヤイヤノサ」CBと同じ所作で上手向き。D各組向かい合い手方棒を肩から降ろし、先端を地面に付け交差させる。E手方棒を交差のまま地面に置き、立てひざで座る。「中略」「げば天台・住吉」は終わる。次に「おい手古・那須の与一」に入る。所望があると他の一節を歌い舞ったが今はない。かつては元禄時代に流行した木やり音頭「桜づくし」「お夏清十郎」など延々と踊られた。

東京七島新聞 2000.4.28より