あまり観光客が訪れることのない行者窟。現在は落石で危険な為、見ることができません。
以下の文章は、執筆者である樋口秀司氏と大島町企画財政課のご好意により、「広報おおしま」よりの転載が許されたものです。
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−役行者没後1300年遠忌に寄せて− 西暦2000年に役行者没後1300年遠忌が催されようとしている。役行者は役小角(えんのおづぬ)ともいい、奈良時代の呪術者であり、山伏(修験道(しゅげんどう))の開祖とされている。その能力をねたんだ韓国広足(からのくにひろたり)に訴えられ、世を惑わす妖言をなしたという理由で大島に流罪となる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』(794年成立。日本書紀に続く六国史の2番目)によると、文武(もんむ)天皇3年(699)5月24日に「役小角流下伊豆嶋」とある。当時の伊豆嶋は伊豆大島のことをさしている。行者は、昼はこの行者窟に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。3年後に許されて都へ帰り、それ以後諸国の峰々を巡ったので、日本各地の霊山幽谷に行者の足跡を伝える伝説が残っている。また、江戸時代の寛政11年(1799)には、時の光格天皇から「神変大菩薩」の諡号(しごう)が贈られている。洞窟内の行者の石像は、僧衣をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、高下駄を履いている。 大島町役場岡田出張所に残る『寛延2年伊豆国大島差出張』(1749)の「崇社合三拾七社」の中には、「役行者泉津村」とだけ記され、祭礼日は載っていないが、現在毎年6目15日に行者祭が行われている。泉津の坂下和嘉男氏と平井優氏の両家では正月を迎えるにあたって、お餅をつき、香花や榊を供え、注連縄(しめなわ)をはり、清掃することを代々続けて下さっている。 また、泉津の街中にある鎮守様の三原神社の境内には、いくつもの小祠が祀られている。鳥居をくくった右手の夕メの巨木の根元のところに男根風の石造物があり、明治21年12月2日に坂下若松氏(和嘉男氏の祖父)が奉納したもので「神変大著隆」と中央縦に彫られている。更に右側の寄宮の中には、前鬼と後鬼を従えた行者の石像がある。側に泉津文化財保存会の名で説明板があり、故酒井米造氏が所蔵していたという古文書の全文が記されている。これは納状で、安政7年(1860)3月28日に、富士山興法寺から大島へ「神変大菩薩石像」一体を笈(きゅう)に納めて届けたという内容のものである。 森口幹彦氏によると、戦前、行者祭にお参りするために臨時便の橘丸を出して、泉津の秋の浜の沖に着け、艀で上陸させ、海岸遊歩道を通って行者窟まで行ったということである。何年のことか調べきれていないが、東京湾汽船もいきな計らいをしたものである。聖地橋を通り越した右側には道場もあったが火事で焼けたという。公園内には聖者橋もあり、役行者窟を成田山のような一大聖地にしようと考えていたらしいとのことである。 修験者の根本霊場の大峰山と天台宗、真言宗が揃って、西暦2000年に役行者没後1300年遠忌を大々的に実施する計画があるという。現在、行者窟の入口には、平成2年6目17日に崩落した大きな岩がそのままになっており、洞窟への通路も手すりが腐ってなくなったままで、立入禁止となっている。行者窟へは、海のふるさと村からトンネルを通って行けるようにもなったし、公園からも舗装された道路で行けるようになっている。東京都より昭和3年3月に旧跡に指定されている役行者窟を伊豆大島の財産として大切にしたいものである。 (文責樋口秀司) |

洞窟内の行者像
三原神社寄宮の行者像