下のほうから眺めると意外に迫力があります。(車で下りられます。)ここには、じゅりあ様の十字架が立てられていす。
大島有数のサーフィンのスポットです。


広報おおしま2001.1
大島町史こぼればなし
「最後に土くれがすこしばかり頭の上にばら撒かれ、すべては永久に過ぎ去る」。およそ人間の営みはやがて消滅し忘れ去られる。大切なのは正しい歴史から現在を認識し未来を洞察することである。俗説を採らず、史料に忠実な記述を心掛けることである。町史はそうした重みをもって編纂された。しかし「言うは易く、行うは難し」である。
信頼できる資料文献も見当たらず、発掘調査や民俗学の力法も活用できないままに書き落とした事柄の中から、興味深い話題を拾い出してみる。
1.「オタイネ」と「おたあジュリア」
大島南部の筆島と古い火ロ付近の岩脈は「おたいね浦の岩脈と筆島」と名付けられ昭和十五年二月に天然記念物として東京都の指定を受けている。この岩は、又「オタイネ」(御体根)とも呼ばれ神の宿る所として信仰の対象である。このオタイネにはキリシタンに関わる一つの伝承がある。
話は豊臣秀吉の朝鮮出兵に遡る。文禄の役(1592年)の折、キリシタン大名の小西行長が朝鮮から連れて帰った貴族の娘が「おたあ」と呼ばれ行長の奥方の許で成長した。関ヶ原の戦(1600年)で小西行長が敗退後は徳川家康の奥女中として仕え、洗礼名をジュリアと言った。信仰心は固く、天性の美しさは輝きを増して家康も目を付けていた。伏見から江戸、さらに駿府と移動し、慶長十七年(1612年)キリスト教禁止となり度々改宗を迫られたが命に従わず、家康の誘いにも応じなかったので伊豆大島へ流罪となったと伝えられている。おたあ信仰の発祥である。
2.史料が語るジュリア
ジュリアの洗礼名は小西行長の妻ジュスタの許にある時付けられた(『東京移管百年史』)とか"朝鮮ヨリ「ジュリア」日本二至ルヤ「オタ」ト名付ケラレタリ・・・・府中(今の静岡)二居住セリ当時天守教盛ンニ行ハレ此婦人モ教会二出入シ洗礼ヲ受ケテ信者トナリ「ジュリア」ナル霊名ヲ受グ"(『波浮港村史』)の記録もある。
ジュリアの生年月日や没年は不明で、1715年にフランスで発行され、明治十一年に翻訳出版の『日本西教史』には、かなり確証の高い記載があるが、以後にさまざまな著書、出版物が出たわりには諸説が紛々としている。
信憑性に足る大島に関する文献はさらにとぼしい。
上智大学、イエズス会司祭チースリグ神父が『文化幻想』第五号「おたあジュリアの消息」に掲載の1605年(慶長十年)『イエズス会年報』で始めて確実な文献に出会った感がある。ロドリゲス・ジラン神父の手によるローマへ送ったこの報告書で伏見城における行長夫人に仕えていた高麗生まれの婦人の生活と行動が明らかになり、さらに1606年来日したらしいアルフォンソ・ムニョス神父のマニラ管区長あての『日本の布教において1606年に起こった最も注目すべき出来事の報告』でこの婦人が伏見から江戸か駿府へ移った前後のようすが判明したわけである。これらはローマ、イエズス会記録所、ロンドン、大英博物館に所蔵されている第一級の資料文献であった。『武功雑記』には「原主水ほか奥方御物仕おたあ等遠島」と記述され、慶長十七年(1612年)に駿府から奉行脇坂光政の警護で清水まで駕籠に乗り、清水と網代間を徒歩で、網代から船で大島に、一カ月程で島替えになり新島、神津島へ渡った。
3.そのころ波浮周辺は
文禄元年と言えば、びゃく(山津波)で下高洞付近の集落が埋まり、現在の元町仲小路辺に集団移住した頃である。波浮周辺については、オタイ浦(前浜)付近は人家もなく、絶壁とかぼそい砂浜が延びているが、くまなくとりついて繁茂する草木と乱舞する海鳥のほか、この辺には人の住む柚小屋もなかった。未だ差木地村の区域に含まれていた。
火ロ湖(波浮の池)の山側の崖ぶちにちらほら家が散在し、森に集落の氏神が祀られていた。薪を伐り塩を炊きこれを浦方の食料と交換する細々とした暮しが想像される。
ジュリアが島に来た三百八十年前頃この辺りは、風待ちでかきはらの磯に停泊するくらいのさびしい海辺だった。『寛延二年大島差出帳』にある如く波浮の池は元禄地震で海と繋がり、波浮開港は寛政十二年(1800年)である。
殊にキリシタンが禁制になると、五人組制や寺による人別帳の整備が徹底して行われ、『浦寵百姓証文』明記のようにキリシタン信仰はきついご法度であった。
ただ島の気風で、命がけで信仰を貫く宗教者に特別の畏敬(いけい)の気持ちで対応していたことは、日蓮宗不受不施派僧にまつわる伝承や供養塔が、それを物語っている。
民俗方言で「おたいさま」があり、伝承では薬草らしきものを教えたとも言われる。天明九年(1789年)の『大島差出帳』に載っている御神体明神は、沖の岩礁(根)に神が宿るとした立神信仰、神霊信仰であり、取り調べ厳しい当時、おタイ様を「おたあジュリア」と知って祀り礼拝したとは考えにくい。しかし、大島南部地区に早くからキリスト教が開花した土壌は、遠く「おたあジュリア」の時代から培養されていたのかもしれない。今でも、御躰明神、オタイネの「大滝明神」には花と供物の供養は絶えない。
4.余話
キリスト教に関連する事件で史料不足のため究明出来ないひとつに寛永十六年(1639年)の「浮橋主水事件」がある。平戸藩のキリシタン騒動の中心人物が評定所の文書に明記され、松浦家文書にも大島流罪の記録があるが、残念ながら、当地には一切の手がかりはない。この事件が、平戸のオランダ商館の破壊や長崎出島へ移転のきっかけとなった事件なだけに、その後の顛末で最近、照会があった。
(文責角田實)
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